コーチ石原の自分史

動画で話しました^^

石原がコーチになるまでのストーリーをまとめています。タイトルをつけるなら”他人軸→自分軸”の人生へ。

幼少期〜保育園

生まれたときの記憶

1990年9月9日。長崎県佐世保市生まれ。

不思議なことに、この世に生まれて最初の記憶は、生まれた産婦人科の窓から見える景色。田舎道に踏切があって、舗装があまい道路の脇にあった産婦人科。

生まれた時の記憶があるなんて信じられなくて、「生まれたとき以外にその病院に行ったことがある?」と母に尋ねたことがある。「それはない」と母が言っていたので、これがおそらく思い出せる私の最初の記憶だ。

他人の評価を求める人生スタート

保育園では、だれよりも足が速く、テストの点も良かった。幼少期から保育園の先生、塾の先生、近所のおばちゃん。様々な人たちから「しっかりした子だね」「頭のいい子だね」「なんでもできる子だね」と言われていた。

母の希望で、保育園は地元のみんなが通う保育園ではなく、私立で学習に力を入れているところに通う。家の前に保育園バスが迎えに来る。同じ地元から通う子はたった2人だけ。

保育園が終わったら、「七田チャイルドアカデミー」という幼児教育の塾と、ピアノ教室、そろばん、水泳に通っていた。

アカデミーでは、英語を勉強したり、記憶力や第六感のトレーニングをしたりする。アカデミーには、帰国子女で英語ペラペラの子ばかりだった。

他人と比べて「できない自分」が悔しかった。劣等感がこの時から芽生え始める。塾に行けば、劣等感しかない。塾に行く前には毎回、大泣きしていた記憶がある。

塾に行きたくないけれど、母がお金をやりくりして、塾の費用を捻出してくれていたことをなんとなく感じていて、かろうじて参加はしていた。

そんな私に母は、「ようちゃんは特別だからなんでもできる」と言っていたのを覚えている。母は純粋にそう思っていたと思うが…。私にはその言葉が辛かった。

母の期待する自分になれないことが苦しかったし、そんな自分を認めたくなかった。今振り返ると、このときから既に、他人の評価で自分を測り生きていた。

劣等感ー優越感の狭間

この時期のことを言葉で表すとするなら、劣等感ー優越感の狭間。

塾では、”できない自分”。保育園では、”できる子”と評価される。できる子でいると、許されることや、甘やかしてもらえることが多かった。

学習ドリルで全員が間違えたときも、「ようこちゃんが間違えるなんて」と先生に言われて、特別に許される経験をする。この経験からも、自分の気持ちよりも”他人の評価が大切”という思いが強化されていった。

他人の顔色を常に伺い、自分の評価ばかり気にしていた。また、そうやって生きていけば、人生は勝ち組とさえ思うようになった。だから、保育園の中で”できる子”でいることは私にとって重要。

”できる子”でいられるように日々振る舞った。他人の思う”できる子”から離れてしまわないかびくびくしていたな。

今思うと、他人の正解が自分の正解になり、自分がどうしたいか?自分で答えを決められないから、いつも自信がなかった。

そもそも、この世には一人一人の正解、その人の思う正解がある。他人の正解を全て網羅しようなんて、スーパーマンにでもならないと、到底無理な話である(笑)

私は、そんなスーパーマンを目指して日々生きていた。

保育園時代から自分の正解を置き去りにしてきたものだから、大人になってコーチングに出会うまで、本当に自分の正解(自分のものさし、大切にしたい基準のようなもの)がわからなかった。

自分が良いと思うこと、自分が好きだと思うこと、自分がどうしたいのか。しまいには、自分の感情も忘れてしまっていた。本当の自分を取り戻すのに20年以上かかったんだな。

友達や兄弟

その当時の私にとって、友達や兄弟は遊び相手であるとともに、大人からいい評価を得るための存在でもあった。大人を自分の上に置き、友達や兄弟は私の下の存在。マウンティングだ。

だから、友人でちょっと輪の外にいる子がいると、寄って行って「○○ちゃんと仲良くしてあげている優しい私」として使っていた部分もあったことを今、正直に認める。

共感性は高くて人の気持ちを察するのは得意だけど、戦略性が働いて、いい評価を得るために人と付き合っていたと思う。

また、私には2つ年下の妹がいるのだが、みんなが「かわいい」と口をそろえて言う容姿の持ち主。私が下に見られるような気がして、妹にはいつも嫉妬していたことを覚えている。

常に劣等感がつきまとう幼少期だった。

小学校低学年

優等生の私

小学生になってからは、公文式、ピアノ、そろばんと習い事を続けた。そろばんでは、九州大会へ出場できる成績。公文式では3学年先の勉強をしており、表彰された。ただ、ピアノは嫌い。

公文式で勉強をしていた私にとって、学校の授業はとても簡単だった。足も速く、スポーツも得意。優等生=できる子という評価を得るのは簡単。

人生は簡単だ。人から評価されれば、自分は価値ある人間になれる、そんな思いがどんどん強くなる。

「優等生でなんでもできる子」――そんな私に価値を感じていた。

当時、アイドルグループのモー娘が流行っていた。だけど私の家では「テレビを見るのは1時間」という決まりで、みんなが買ってもらえるCDやグッズなどは買うことができなかった。これは、痛かったな。

物を買えないと思われるかも、家が貧乏だと思われたらどうしよう。そういう不安があった。
おこづかいは、「○○を買うから、いくらください。」という自己申告制だったこともあり、親には話すことができなかった。

なぜ親に話せなかったかと言うと、モー娘。のグッズが欲しいなんて言ったら、「優等生」の私が崩れるかもしれないそう思っていたからだ。

遊ばず、勉強していることがいいことだと思っていたので、母をがっかりさせたくなかったのだ。

今思うと、話していたら買ってもらえたかもしれない。だけどモー娘が好きだったのかというと、実は私はモー娘が好きだったわけではない。

グッズやCDを持っていれば人気者の私になれると思っていたのだ。

こんなところにも、自分の気持ちより他人からの評価が大事という考えが顔を出す。あと、もし私がモー娘に入ったら、みんなの注目の的になるかもと思い、母に一度だけ、オーディションを受けようかと持ちかけたことがある。

母は、「妹の○○ならわかるけど…」と言った!母は、冗談のつもりだったらしいが…それでその想いは消えた(笑)

小学校3年生あたりになると、さらに人の目が気になるようになった。「優等生でみんなに好かれるためには…ぶりっ子と思われると終わりだ」と思った。

それで、男っぽくしようと声を低くして話したり、男言葉をつかったり、ズボンをわざと履くようにしたり、ショートヘアにしたり。

本当は私、女の子っぽい可愛いものが好きだということを、コーチングに出会って知ったくらい。自分の気持ち、好きな物がわからなくなるほど、いかに他人目線の評価を気にしていたかお分かり頂けると思う。

ちょっとしたいじめ

友人との関係では、人の顔色をうかがって、そのときの都合によって、話を合わせたりしていた。

ある日、「Aさんにはこう言ったのに、Bさんにはこう言っている」と私の話のつじつまが合わないという事件が起きた。

それ以降、いつも一緒に帰ってくれていた友人が下校のとき、一緒に帰ってくれない時期もあったり、グループ分けのときいつものグループに入れてもらえなかったり…仲間外れになったことがあった。

そのとき、私は傷ついていたのだと思うが、その感情を感じた記憶はない。悲しいという感情よりも、親や先生に”いじめられている子”と思われる方が怖くて、そう見えないように取り繕うのに必死だった。

家族関係

小学3年生のときに9歳年の離れた弟が生まれた。しかし、この頃から明らかに両親の不仲が目立った。1日に1回は喧嘩をしていて、怒鳴り合い。

原因は父親の浮気と借金だった。父親は消防士で、とってもイケメン。友人たちからも「ようこちゃんのお父さんかっこいいね」とよく言われていた。

父は、レスキューの大会で入賞するほどの腕で、他人の評価が得たい私としては自慢の父。「イケメンで消防士の父を持つ私」に誇りを持っていたのだと思う。

そんな父が浮気と借金。

とても恥ずかしいと思ったし、同時に「自分がしっかりしなければ」と思った記憶がある。借金がある父を持つと人にばれないようにしなければ、優等生の私の評価が崩れる。

そう思って、借金や父のことを隠すことに必死になった。そうするうちに自分は貧乏だという思い込みを作ったように思う。

ただ、コーチングを受けて振り返ってみると私自身がお金に困ったことはなかった。

母は父の借金を返すために朝から新聞配達をして頑張っていたから、大学まで行かせてもらったし、大学に編入するときは祖母が予備校にも通わせてくれた。

思い込みって不思議だし、人生に大きな影響を与えるんだなとコーチをしていて改めて思う。金銭的な貧さよりも、貧しい思い込みだったのだな~‥笑

好きだったこと、コーチングに出会う起源の趣味

勉強はできたが、あまり好きではなかった私が唯一没頭したものは「読書」だった。特にフィクションが好きだった。

違う世界に行けること、フィクションでは主人公が辛い思いをしても、どんどん成長していくこと。そして最後はハッピーエンド。きっと、自分と重ねて自分のハッピーエンドな未来を想像していたのだと思う。

また読書であれば、優等生の自分から離れることもなく、母からも勉強の一環として見られるからよいと思っていた。勉強よりも読書が楽、しかも褒めてもらえるという動機から始めたが、読書のおかげで色々な世界を知ることができた。

読書は、のちにコーチングに出会うことに繋がっている。

ちなみに小学校低学年時代までは、ずっと医者かアニメの「セーラームーン」になりたいという夢を持っていた(笑)「セーラームーン」では、「美奈子ちゃん」と「うさぎちゃん」が好きだった。

優等生で一般的に評価される美奈子ちゃんが好きという半面、いつも自分らしくて結局愛されてしまう、うさぎちゃんの生き方に心が反応していたのだと思う。

なんでもできる友人

一緒に公文式、ピアノに通っていたMちゃんという友人がいた。彼女も、何でもできる子と言われていた。

公文式でも、私より少し先の勉強をしていた。ピアノもコンクールで優勝するなど、抜群にうまかった。足も速かった。しかも、私が憧れる顔立ちだった。

また、私と違って彼女は、他人の評価ではなく「自分の好き」を大切にしていた。

常に、自分の外側に価値を置いていた私。「勝たなければ私の価値は…」。Mちゃんに負けると、自分の価値が下がったように感じたことを覚えている。いつも不安だった。

運動会で初めての3位

Mちゃんに勝たなければという思いが増していた頃、運動会があった。その頃、「男女平等」がうたわれ始めた頃で、6年生の運動会では男女混合でかけっこだった。
私は、男子で一番足が速い子と一緒の組になった。

「男女の違いがあるから、もし負けてしまっても仕方ない」と自分に言い聞かせて挑んだ。だが当日、予想に反してまさかの他の男の子にも負けたのだ。私は1週間ほど落ち込んだ。

そして、負けるという経験をしていく中で、自分の外側に置いていた価値が崩れていった。

「足が一番速い私」「勉強が全て一番の私」「優等生な私」「かっこいい父を持つ私」「なんでもできる私」が、少しずつなくなっていった。それと共に、自分への自信をどんどん失った。

ただ、自分のために何かをやったとき、心が満たされることを少しだけ学ぶ経験をした。小学校体育大会での出来事である。

私が出場する小体連の種目は、高跳びになった。体育の先生が、授業での私の姿を見て打診してくれたのだ。私自身、高跳びは走ることより好きだった。

高跳びの練習を毎日している私を見て、近所のみんなが応援してくれた。ある人は、竹を切ってお手製の練習バーを作ってくれ、ある人は、練習中にお茶や食べ物を準備してくれた。

そんな周りの人の気持ちから、「自分が好きなことをしている時間は周りに認められない」という不安から感じる、いつもの心のもやもやは消えていた。

小体連当日、今まで飛んだことのない高さのバーをクリアし準優勝の成績を収めた。みんなが喜ぶ姿を見て、私はとても嬉しかった。

この経験から、

・自分の心が喜ぶことを大切にすること
・応援によって、自分の持つ力以上の力を引き出すことができること

を知ることができた。

これは、今のコーチとしての生き方に繋がるものがある。

応援し続けてくれた人

そんな小学生時代だったが、いつも私を信じて褒めてくれる人がいた。

一緒に住む祖母と、隣の家に住むMさん夫婦。いつも、無償の愛で応援してくれた人たちである。

成績表が出ると、毎回持って行っていて「よく頑張ったね」と褒めてくれた。どんな状態の私でも受け入れてくれて、応援してくれた。

何があっても、そこへ行けば心地よい安心感を感じる場所だった。ありがとう。

中学時代

部活動で、挫折

中学校へ進学。中学校は一学年が100名ほどの小さな学校。私は、走るのが得意だったことと、小体連のときにできた友人Sちゃんのごり押しによって陸上部に入部。

陸上部とはいえ、少人数の部活で長距離のみしか選択できない。長距離は実は、大嫌いだった。

また、陸上部の顧問の先生と馬が合わず、練習に行くのが嫌だった。陸上部を勧めてくれた友人も練習に行かなくなり、私たち2人は半年で退部。

その後、先生の勧めにより、半ば無理やりSちゃんとともにバレー部に入部することになる。バレー部は強豪で、みな小学生からクラブチームに入っている子たちばかり。Sちゃんもバレーボール経験者だった。

私は、それまで球技をしたことがなかった。天井に高く上がったボールがコントロールできずに顔面に当たり、恥ずかしい思いをする日々。

けれども、優等生のレールから外れないように、また部活を辞めるわけにはいかなかった。1年が経過し、先輩が卒業するときには、キャプテンを任されることになった。

キャプテンを任されたものの、試合の大事なときはひっこめられるリベロ。今でも悔しい気持ちや、寂しい気持ちを思いだす。相当な挫折感だった。

このときも、「自分は2年生から始めたから仕方ない」と自分に言い聞かせる毎日だった。

生徒会での敗戦

周りのすすめや優等生の自分を守るため、生徒会の副会長に立候補することにした。しかし、小学生のときから「勝ちたい」と思っていたMちゃんとの一騎打ちになって、13票差で私は敗れた。

私は、理事という役職につくことになった。生徒会に入ったものの、登校は遅刻ギリギリの時間にしてみるとか、スカートを短くするとか、授業中に手紙を交換してみるなど、不良じみたことをこっそりやっていた。

優等生でいることに疲れている自分と、優等生というイメージを捨てたくない自分がいた。

優等生に疲れた私は授業中サボって、手紙の交換を友人としていた。それが数学の先生にバレて怒られた。

その際ずっと黙っている私を「石原さんがそんなことするはずがない」と担任の先生がかばってくれた。他人の評価があれば、やっぱり人生は楽勝かも。担任の先生への申し訳なさを感じながら、そう思った。

初めての彼

中学2年生で初めての彼氏ができた。野球部の男の子で、とっても優しかった。でも、彼が好きというよりも、「彼氏がいる私」に酔っていた部分があったと思う。

恋愛でも、他人の評価を大事にしてしまう。「彼氏がいる私」を崩さないために、付き合っている状態を何とか維持させようと必死だった。

自分の意見は言わず、合わせることでそれを維持しようとし、勝手に悩んだり、苦しくなったりしていた。コーチングに出会うまでは、恋愛もひたすらこんな感じ。当時お付き合いをしてくれた男性には本当に申し訳なく思う。

高校受験

勉強については、公文式、ピアノ、そろばん、英語、水泳と習っていたことで成績表はたいていオール5。苦手な美術だけ4。

市内で一番優秀な進学校を推薦受験した。この高校は、中学校から車で1時間以上かかる場所なので、成績が良い子も市内二番目の近い高校を希望することが多い。

いつもライバル視していた友人のMちゃんは、市内二番目の学校。初めて友人に勝った気がしていた。

「みんなに勝ちたい、すごいと思われたい」という他人の評価が理由で高校を選ぶって今思うと悲しいな。

両親の離婚

中学2年生になって両親が離婚することになった。

この頃、「お父さんが借金をしたから」という母の言葉を聞いていた記憶がある。父のせいで、普通の生活ができない。父のせいで、優等生の私が崩れる。世間からの私の評価が下がってしまう。

私は、父のことを憎むようになった。しかし、憎んでいる父は家にはいない。

そこで私が八つ当たりしたのは、祖母や妹、そして母だった。「お母さんの子に生まれんかったらよかったし」。そんな暴言も幾度となく吐くようになっていた。

離婚のことで悩む母にも「すぐ泣くなんて、親としてどうなん。ダサすぎやろ。そんなんだから浮気されるんじゃない?」といって掴みかかったこともあった。

自分の抱える劣等感や敗北感に振り回されて、そのうっぷんを人を傷つけることで埋めていた。

専門学校時代

恐怖の専門学校

私が進学した「九州医療センター附属看護専門学校」の偏差値は、61.5くらい。卒業生の看護の質は高いと評価を得ていた。

そんな学校であるため、

  • 「バイトは禁止」
  • 「半数以上が寮に入る」
  • 「授業出席率 ほぼ100%」
  • 「国家試験合格率 毎年100%」

また、校則もとても厳しい。

髪色は決まりがあり、看護の演習をする部屋には髪色のサンプルがあった。それより明るかったら入室不可。マツエクは禁止。もちろんネイルも。


爪は白いところが5㎜以下になるように。実習のシューズは、ちょっとでも汚れていたら入室不可。

最初は私も寮に入り、大人しく学校生活を送っていた。が、もともと「都会に住む私」と「他人に勝つため」に決めた進路。看護にはそれほど興味が湧かず、すぐに授業がおもしろくなくなった。

友人は、望んで看護学校に来た人ばかり。みんなイキイキした顔で、看護に取り組んでいた。自分だけ…好きなものも見つからず、焦る毎日だった。

秘密のバイト

学校では、バイトは禁止と決まっていた。より勉強に集中できるようにという理由からだった。専門学校では、3年で看護師になるための全てを学ぶ。大学は4年なので、大学より1年短い。

先生たちはよく「あなたたちは何をしに来たのですか?看護師になるためですよね」と言っていた。

だが、私がバイト禁止の校則を守るわけもなく、3つのバイトを始めた。(ヤフードームのキリンビールの売店、カフェ、居酒屋)

寮には門限があったので、一人暮らしも始めた。

私と同じ長崎県出身の友人と仲良くなり、二人でバイトに明け暮れたあとは、西中洲のバーに飲みに繰り出すという日々を送った。お互いの家によく泊まり、朝寝坊し、時間をずらして学校に行っていた。

1週間に1回は怒られていた。仮病や、ずる休みもよくしていた。夜更かしをするので、授業中はひたすら爆睡。

担任の先生は、私の生活態度をなんとかしたいと、カウンセラーの先生のところへ行かせることを決定し、強制的に連れて行かれたこともあった。

看護学実習

2年生後半になると、病棟での実習が始まる。その実習を乗り越えられるかが勝負といわれていた。一学年に何名かはリタイアする人が出るのだ。

私は、ちょっと怖気付いて3年生から寮に戻るという選択をした。実習が始まり、毎日が感覚的に地獄だった。

看護記録、看護診断レポート、日々禄など様々なレポートが山のようにある。しかも手書きという決まりだ(コピー防止のため)

私は、3つやっていたバイトが大好きでたまらなかった。当時の生きる目的だったのだ。なんとかして、バイトを続けたい…ただ、徹夜で次の日を迎えるくらいのレポートの量。

そこで私の取った行動は、実習中にトイレでレポートを書くことだった。暇さえあれば、病棟でもバインダーを片手にレポートを書く。昼休みもひたすらレポートを書く。

ただ、その場をしのぐためにレポートを書いていた。そのことには病棟の看護師さんたちも気付いており、要チェック生徒にあげられていたと思う。

レポートの内容が薄いと、実習に行かせてもらえなかった日もあった。

みんなは真剣に患者さんと向き合っている中、レポートをいかに終わらせるかに頭がいっぱいだった私は、ある患者さんに出会うことになる。

初めて人と向き合った経験

消化器外科の実習で受け持った患者さんは、肝がんの患者さんだった。転移があり、ステージも重かったと思う。たまたま、私と同じ県出身の方だった。

初めてレポートじゃなくて、生身の患者さんと向き合った瞬間だったと思う。彼女は、「私は、まだ生きたいと思うからどんな治療でもがんばる」と言って、放射線治療など様々な治療を受けていた。

「あなたがいると気が休まるわ」「ありがとう」「気持ちの整理ができる」と、ただ話を聴き一緒にいるだけでそういう言葉をもらった。そんな状況になると人は、自分にできることを考え出すのだと思う。

私は初めて、看護師(看護学生)として何ができるかを考えた。

私は話を聴いて、ただ側にいることしかできなかったけど…元気のなかった彼女は、自分の人生について語るうちに、元気になることがよくあった。

そして最後には、いつも「まだ生きたい」と言っていた。

自分の人生を言葉にしていくこと、人に話すこと。そして、自分の人生を聴いて向き合ってくれる人がいると生きる力が湧くことを知った経験だった。

このエピソードは、今のコーチとしての私に繋がっていると思う。

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彼女は、真珠の養殖会社を代々経営されており、実習期間が終わり、卒業するころに、封筒が届いた。娘さんからで、「母が永眠しました。実習期間中は本当にありがとう。あなたのことをよく話してくれていました。あなたに、プレゼントをしたいとずっと言っていたので勝手ながら送らせていただきます。」と書いてありました。写真のネックレスは今でも宝物だ。

大切な人たち

私の学校での態度は、これまで書いてきたように一般的には「不真面目」だった。そんなわけで、大半の先生は私のことを諦めていた。看護師になるのさっさと辞めれば?と言ってきた先生もいた。

だけど教育主事の先生は、

「あなたは、絶対にできるからまず、真面目に取り組んでみなさい。そして、大学に行きなさい。行って勉強しなさい」と言った。

勝手に予約されていた、スクールカウンセラーの先生からも、

「あなたは落ちこぼれじゃなくて、吹きこぼれ。先の予測ができて、頑張ればなんでもできてしまって、おもしろくなくなったんだよね。だから大丈夫。あなたはやりたい通りにやりなさい。今は悩んでいるかもしれないけど、大丈夫。いつか道が見つかるから。なんかあったらいつでも連絡しなさい。」と言ってくれた。

事務の先生も、よく声をかけてくれた。書類のことではたくさん助けてもらったな。この先生とは今でもつながっている。

こうやって、「不真面目な私」ではなく「私」そのものを見てくれる人がいっぱいいた。また、一学年上の子で留年した友人と仲良くなった。

彼女とはなぜか仲良くなった。おそらく私もクラスで浮いていたからだと思う。彼女も、学年が変わったことで、なじめなかったらしい。

また、この彼女がすばらしい人で、私が学校に行きたくない、実習をサボろうとするタイミングで「ちゃんと行け」と声をかけてきた。大嫌いだった学校にも、そんな大切な人たちがいた。(今でも応援してくれる仲間で本当にありがたい)

学校の外では、3つしていたバイト先の人達が支えてくれた。

1つは個人経営の居酒屋。
そこの大将とおかみさんは、私の福岡の親と言う感じ。なにも言わないけれど、実習期間にバイトに行くと、次の日のご飯まで用意してくれてお弁当を持たせてくれた。

もう一つのバイトは、ヤフードーム。
キリンビールの売店の仲間。そこのメンバーは、今でも誰かが結婚したりすると集合がかかるほどの仲良し。私が3年生で、寮に入って23時が門限になった時も、車で間に合うように送ってくれた。

”学校を辞めたい”と言えば、「辞めたらバイトも辞めろ」と言ってくれていた。みんなのおかげで私は、大分大学医学部看護学科編入試験に合格。大学に進学することになった。

ここで一つ自慢。2年次に後ろから3番目だった成績はいつの間にか、3年次の6月には上から2番。そして、無事看護師の国家試験もパス。得点率は96%。(65%前後がボーダーラインです)

大学時代

1週間に一度の授業

編入生は7人だった。すぐにみんなは、仲良くなった。3年次編入だったが、3年前期の授業はなんと1週間で1コマだった。専門学校で取った単位がほぼ、認められたのだ。

他の子たちは、1週間に10コマ以上あったので私だけ暇。あれ?キャンパスライフをエンジョイしようと思ったのにな~。

大学時代のバイト

暇だったので始めたのは、看護師のバイト。あともう一つ。友人の誘いでホステスのバイトを始めた。看護師のバイトは、早出を任されるようになり、とにかく必死に働いた。

ホステスのバイトは、友人といつも一緒だった。働くなかで思ったことは、「水商売をしている女性をバカにしている男性が多い」ということ。

私も”外側の価値”を大切にしていたので、最初は「水商売をしている私なんて恥ずかしい」と思っていた。だけど友人のごり押しで始めてみて、気付いたことがあった。

世間一般では、社会的地位も低く、何もできない人がする仕事なんていう評価もある。だけど、幸せそうな女性も多くいたし、「この人みたいになりたいな」と思った人もいた。そのときに、少し気づいた。

あれ?他人からの評価とか常識って、自分にとっての真実ではないのかもしれない。
自分がどう思うか、感じるかが大事なのかもしれない。このあたりから、自分の内側に意識が向き始めたのだと思う。

卒業と就職

そんな感じの大学生活。人よりも勉強はしなかったけど、なんとか必要な単位は修得した。就職活動も同時にしていて、関東の大きな病院への就職が決まっていた。(これも人からどう思われるかを大事に、とりあえず大きくて有名な病院にしました笑)

が、直前で大分の大学病院の試験を受験し、そっちに就職することにした。理由は、彼がいて離れたくなかったのと、父が心筋梗塞で倒れたことで九州にいた方がいいという判断だった。保健師の国家試験も合格して、いよいよ就職となった。

暗黒の看護師時代

ICUでの毎日

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配属先は、ICU(集中治療室)になった。ICU希望だったので嬉しかった。ICUを希望した理由は、やっぱり他人からの目が半分。

父方の祖母が身体が弱かったこともあって、命が消えそうな時に緊急的に何かできることがある人たちってかっこいいなと思っていたからだ。

ICUに入ってからは、暗黒期だった。外側の評価ばかり気にしていた私は、先輩の目ばかりを気にして患者さんと向き合うことがなかった。患者さんより、自分がどうみえるか。先輩の顔色ばかり気にしていて、先輩の顔がちょっと歪むと何もできなくなった。

そうなっていくと、できることもできない。自分のことが信じられなくなった。自分を疑ってばかりだったので、何をしてもどんな小さなことでも、自分がちゃんとできたか心配だった。どんどん自信がなくなっていく。

病態のことや患者さんのことも一応勉強していた。でも、どれだけ勉強しても、技術もどれだけ練習しても自信が持てず、顔色をうかがいながらだった。こんな毎日が続くと、やる気もなくなっていく。不安からエネルギーを消耗していた。

仕事に行くことを辞めてしまえば、自分の人生が終わる気がして仕事には行っていた。朝起きた瞬間から、もう朝かと二度寝をし、ぎりぎりまで寝て、顔だけ洗って出勤する。

また、一人折り合いが合わない先輩がいて足音を聞くだけで怖くなった。

なんとか勤務時間を耐えしのいで、仕事が終わってそのまま寝る。また、最悪の気分で朝を迎える。1年以上そんな生活を繰り返すと、ちょっとしたことで涙が止まらない。そして、感覚が鈍る。そんな状態になった。

メンタルクリニック

いよいよまずいと思って、クリニックに行った。クリニックの先生と話して、このまま看護師を辞めると負けた気になるからやめたくないので内服をくださいと自分からお願いした。

先生は、病名も特に告げず、「わかった。今の状態だったら薬飲まなくてもいいと思うよ。だけど、薬がないと仕事に行けない、仕事のせいなら今仕事やめてもいいんじゃない?笑」とだけ言って内服を出してくれた。

内服薬を見ると、ある抗うつ薬0.25錠と気分を落ち着ける漢方だった。

一度だけその薬を飲んだ後、残りを全部捨てた。何故なら怖かったからだ。私は実習で、うつ病の患者さんを担当していたこともあって、その姿と自分の姿が重なったから。このまま内服なしで生活が送れなくなるかもしれないと思った。

薬を飲む勇気もないなら、薬なしで過ごせるようになるしかないと思った。ここで、絶対変わってやろう!!!!!!!!自分の中から声が聴こえた気がした。声を上げて、わんわん泣きながら変わることを決意した。

生活

当時、生活はボロボロだった。食事はコンビニかお菓子。カントリーマァムのファミリーパック、ミルキー1袋。服にカビが生える、ヨーグルトが朝起きたら顔に降ってくるという伝説ができたのもこの時。

看護師のお給料は30万円弱あったものの、月末はなぜかカードの支払におびえていた。何に使ったのかもわからないという感じだった。いつもお金がないという感覚があった。

恋愛は、彼氏がいた時期もあったが、中学、高校のときと同じように、自分に自信がないので素の自分で相手に接したことがなくいつも居心地が悪い恋愛だった。

恋愛のコラムや本を読んで、一般的に恋愛でいいとされる私を創りあげようと必死だった・・・彼と会っているときも、一般的ないい女を演じられているか?失敗していないか?そんなことばかりに気を向けていた。

引き寄せの法則

そんな生活や状況が本当に嫌になって、自分を変えてやろうそう思った時、思い出したものがあった。

「引き寄せの法則」である。昔から母が、「思った通りの人生になるよ。だから、自分でなりたい自分を思い浮かべるといいよ。」「引き寄せの法則っていうのがあってね…」とザ シークレットという本を手渡してくれたのを思い出した。

この本でなんとか立ち直ろうと思ったものの、うまく行かず、結果的にセミナーにお金をかけた。更に、1日1冊は自己啓発の本を読んだけれども自分の状況が変わることはなかった。

諦めそうになりながらも、なんとか変わりたい、自分のことを諦めたくない。そんな思いだけで行動していった。

信じてくれていた人たち

仕事はうまくいかない。そのストレスからお金を使う。いつも憂鬱で、何が不満か?何が不安なのか?わからないけれど、毎日がなんとなくもやっとした中を生きていた。いつも「本当の私はこんなものじゃない」という気持ちが胸に合った。

そんな気持ちで過ごし続けていた私は、顔もオーラもいつの間にかもやっとしていたと思う。

そんな私でも、看護師時代ずーっと応援してくれた人がいた。私がやる気のないどんなにエネルギーの無い顔をしていても「うちの石原に見せてあげて」「うちの石原に経験させて」「石原さん、さぁ○○さんのケアやるよ!!!」目をキラキラさせて私を引っ張ってくれる人がいた。

当時のICUの副師長。彼女は、年末にあるパートナーナースを決める会議で、「石原さんとやりたいです。彼女は、良くなろうとする姿勢があるから」と、どん底の私を選んでくれた。

私が、他の先輩に怒られたら、「なんで今それした?理由をまず話しなさい。あなたがしたことには意図があるよね?」と先輩のもとから私を引き取って、とことん理由を聞いてくれた。

どんな時もあなたの力を信じる。そういう姿勢で接してくれていたことが私の前に進む力なった。このことは、私のコーチとしての姿勢に繋がっている。

辞める決意を

2年目になって副師長さんとペアになり、どんなことにも頑張る気力が湧いた。患者さんをしっかり観察して、次に備える。それを繰り返していたら、いつの間にか、先輩たちに仕事で褒められるようになった。「石原2年目だけど、石原がいると安心」そう声をかけてくれる人も出てきた。

だけど、私は看護師を辞めることを決めていた。自分のこれからの人生をしっかり決めたいという気持ちだった。看護師は一旦辞めてみようと思った。

ライフコーチングとの出会い

今でもライフコーチングとの出会いは不思議なものだったと思う。少しずつ自分を取り戻した私は、もっと人生をよくする方法はないか?探していたところたまたまライフコーチのブログにたどり着いた。

直感的にこれだと思った私は、ライフコーチングに申し込んだ。

ライフコーチングを受ける

ある程度、自分を取り戻してきてはいたが「瑶子ちゃんはどうしたい?」とコーチから聞かれたときに私は全く答えが出てこないこともあった。

また、これまでの自分を振り返っていく中で、自分の繰り返してきたパターンに気づいた。

いつも他人から評価を得て満足する。だけどそれがなくなれば、不安になったり、自分より出来る人がいると自分が無価値になった気がする。

負けている自分を見て「こんなの本当の私じゃない」と劣等感に駆られる。

あれ?私いつも繰り返してる。これまで生きてきて、「ICUのできる私」「優等生の私」「勉強ができる私」「スポーツができる私」「看護師の私」

○○な私…に価値を感じてきた。

思ったような評価が得られない時、本当の私はこんなはずじゃないと言い続けていたのだが「本当の私ってなんだろう?」ということも考えた。

これまでは「本当の私=他人から完璧な評価を得られる私」だと思っていた。だけど、そうではなくて「今ここにいるありのままの自分」が本当の自分だと分かった。

不安で悩んでいて、自分のことも見失ってきた私。それも本当の私だと気づいてちょっとショックだったけれど、同時にほっとする感じもあった。

そして、他人にどう思われるか?の他人の評価ではなく、自分がどうしたいか?自分の評価を大切に生きていくと決めた。

そう決めて行動すると、これまで悩んできたことがあっという間になぜか解決してきた。

その当時一番悩んでいた先輩との関係もうまくいくようになったし、ありのままの自分でいられて安心でき、本気で応援してくれるパートナーにも出会えた。コーチングすごい。

保健師への転職

この頃、看護師を辞めて転職した。転職先は、一部上場企業。保健師として健康教室の企画・運営や健康相談など。救護をすることもあった。ICUとは全く違う環境だった。最初は慣れなかったけれど数ヶ月経つと慣れて、仕事が楽しくなった。

ライフコーチワールドに通う

保健師に転職をした後、コーチングを学び始めた。コーチングにもっと早く出会いたかったとコーチングを受けて実感し私は、コーチになりたいと思った。

私はライフコーチワールド福岡3期の生徒として通うことに。保健師の仕事をしながら通っていたのでシフトの調整は必要だったが、ライフコーチワールドへ通うことは努力した感覚はなかった。

4期も再受講生として繰り返し通った。ここでの学びは計り知れず、私(石原瑶子)として生きるための自己基盤をひたすら整えた1年だったと思う。

この時、先輩コーチからもらった”コーチたる者、最高のクライアントであれ”という言葉は今でもとても大切にしている。

コーチングはよりよく生きるために使うもの。コーチがコーチングを生かしきれていなくて、クライアントに勧めるなんてできないからだ。自分と向き合ってもおらず、よりよく生きようとしていないコーチにコーチしてもらいたいとは思わないだろうから。

コーチングを学びながら、コーチとしての活動も始めた。沢山の人との出会いと、応援のおかげで1年間成長できました。本当に感謝。皆さまありがとうございます。

この駆け出しの一年で多くのクライアントが私を選んでくれた。2017年後半だけでもセッション数は100時間を超えた。

まさかの昇進

そんな中、職場では昇進をした。責任者というポジション。一部上場企業のとある現場の責任者だったので、昔の私ならドヤっていたと思う。でもこの時は、肩書きをひけらかして前に出す私ではなくなっていた。

責任者の私ではなく、私が責任者というポジションについた。
肩書きが前ではなく、私の一部に責任者という肩書が加わった感覚。これがなくなっても私は無くならない。

Happy Spiral九州の代表として

九州の女性を元気にしようという試みで代表になり、始めたHappySpiral九州では、150名以上のイベント参加者を3回のイベントで動員した。

HappySpiralの活動は今は行っていないが、このイベントをきっかけに自分の好きな仕事を始められたり、自分の人生を生きるきっかけになったという感想を頂いたりして、当時は必死だったけれど企画して本当によかったと思う。

認定ライフコーチに合格

2018年通っていたスクールを卒業し、認定ライフコーチの試験を受けた。難易度が高く、1度ではなかなか合格しない試験ですごく緊張したのを覚えている。

練習に付き合ってくれた仲間や先輩コーチのおかげで、無事合格できた。

オンライントレーナーとしてクラスに関わる

卒業したスクールでオンライントレーナーとしてのオファーをもらった。なかなかできない、コーチを育てる仕事にチャレンジさせていただいた。

本当に感謝したい。いつも思うけれど、私は人に恵まれていると思う。

研修講師としてのチャレンジ

初めての研修講師を、会社内でチャレンジさせてもらった。また、友人からの紹介で、研修講師のお仕事もいただけるようになった。

兼業を始め、コーチと会社員として二足のわらじの生活が始まる。

独立

その後コーチとして、独立。常時30名以上のクライアントをサポートさせていただいたり、卒業したスクールで、トレーナーを担当したりもした。

他には年間で企業のサポートをさせていただくこともある。現在は、一緒に仕事をしてくれる仲間にも出会い、クライアントが自分という人間を生かして望む人生を送るサポートを行なっている。