自分史~中学生時代~

部活動で、挫折

中学校へ進学。中学校は「小佐々中学校」という一学年が100名ほどの小さな学校。「小佐々小学校」と「楠泊小学校」という2つの学校が合わさってできる。

私は、走るのが得意だったことと、小体連のときにできた楠泊小学校の友人Sちゃんのごり押しによって陸上部に入部。

陸上部とはいえ、少人数の部活で長距離のみしか選択できない。

長距離は実は、大嫌いだった。

また、陸上部の顧問の先生(男性)と馬が合わず、練習に行くのが嫌だった。
Sちゃんも練習に行かなくなり、私たち2人は半年で退部。

その後、体育の先生がバレー部の顧問の先生で、その先生の勧めにより、半ば無理やりSちゃんとともにバレー部に入部することになる。

バレー部は強豪で、みな小学生からクラブチームに入っている子たちばかり。Sちゃんもバレーボール経験者だった。

私は、それまで球技をしたことがなかった。天井に高く上がったボールがコントロールできずに顔面に当たり、恥ずかしい思いをする日々。

けれども、優等生のレールから外れないように、また部活を辞めるわけにはいかなかった。

1年が経過し、先輩が卒業するときには、キャプテンを任されることになった。

キャプテンを任されたものの、試合の大事なときはひっこめられるリベロ。

今でも思い出すと、悔しい気持ちや、寂しい気持ちを思いだす。相当な挫折感だった。

このときも、「自分は2年生から始めたから仕方ない」と自分に言い聞かせる毎日だった。

生徒会での敗戦

周りのすすめや優等生の自分を守るため、生徒会の副会長に立候補することにした。

しかし、小学生のときから「勝ちたい」と思っていたMちゃんとの一騎打ちになって、13票差で私は敗れた。

私は、理事という役職につくことになった。(今思うと自分の外側に価値を置き、勝手に競って、勝とうとするあまり、負け続ける人生。常に劣等感を抱えていますね笑 コーチングに出会えて本当によかった)

生徒会に入ったものの、いつもSちゃんと一緒にいて、登校は遅刻ギリギリの時間にしてみるとか、スカートを短くするとか、授業中に手紙を交換してみるなど、不良じみたことをこっそりやっていた。

優等生でいることに疲れている自分と、優等生というイメージを捨てたくない自分がいた。

誰かが密告して、授業中の手紙の交換がバレかけたことがあったが、ここでも「石原さんがそんなことするはずがない」と先生が言って、庇ったことを知った。

「他人の評価があれば、やっぱり人生は楽勝」、そう思った。

生徒会に入って、初めての彼氏ができた。野球部の男の子で、とっても優しかった。でも、彼が好きというよりも、「彼氏がいる私」に酔っていた。

恋愛でも、他人の評価、外側の評価を大事にしてしまう。

だから、「彼氏がいる私」を崩さないために、付き合っている状態を何とか維持させようとした。自分の意見は言わず、合わせることでそれを維持しようとしていた。
だから、勝手に悩んだり、苦しくなったりしていた。

コーチングに出会うまでは、こんな恋愛をひたすら繰り返していた。

高校受験

勉強については、公文式、ピアノ、そろばん、英語、水泳と習っていたことで成績表はたいていオール5。苦手な美術だけ4。

市内一の中高一貫の進学校を推薦受験した。

中学校から車で1時間以上かかる場所なので、成績が良い子も市内二番目の高校を希望する。
私は、ここでも「Mちゃんに勝ちたい」と思って遠く離れた高校を受験した。

いつも競っていたMちゃんは、市内二番目の学校。

初めてMちゃんに勝った気がしていた。

両親の離婚

中学2年生になって両親が離婚することになった。

この頃、「お父さんがお金を使ったから、うちはお金持ちじゃない」という母の言葉を聞いていた記憶がある。

お父さんのせいで、普通の生活ができない。父のせいで、優等生の私が崩れる。世間からの私の評価が下がってしまう。

私は、父のことを憎むようになった。
しかし、憎んでいる父は家にはいない。

そこで私が八つ当たりしたのは、祖母や妹、そして母だった。「お母さんの子に生まれんかったらよかったし」。そんな暴言も幾度となく吐くようになっていた。

離婚のことで悩む母にも「すぐ泣くなんて、親としてどうなん。ダサすぎやろ。そんなんだから浮気されるんじゃない?」といって掴みかかったこともあった。(今になって思いますが、母の強さや優しさには感服します。ごめんね。)

自分の抱える劣等感や敗北感に振り回されて、そのうっぷんを人を傷つけることで埋めていた。

▼高校時代
大きな大きな挫折、虚無感、無価値感