自分史~幼少期から保育園時代~

産まれた時の記憶

1990年9月9日。長崎県佐世保市に生まれる。
予定日は9月10日の両親の結婚記念日だった。
が1日早く生まれたらしい。
昔から、さっさと行動したいらしい(笑)

不思議なことにこの世に生まれて、最初の記憶は、生まれた産婦人科の窓から見える景色。田舎道に踏切があって、舗装があまい道路のわきにあった産婦人科。産まれたての記憶があるなんって信じられなくて、「生まれた時以外にその病院に行ったことがある?」と母に尋ねたことがある。

それはないと母が言っていたので、これがおそらく思い出せる私の最初の記憶だ。

外側の評価で価値を図る

保育園では、だれよりも足が速く、テストの点も良かった。幼少期から近所のおばちゃんや保育園の先生、塾の先生から「しっかりした子だね」「あたまのいい子だね」「なんでもできる子だね」と言われていた記憶がある。

母の希望で、保育園は私立で学習に力を入れているところ。地元の皆が行く保育園ではなく、家の前に保育園バスが、お迎えに来る。同じ地元から通う子はたった2人だった。保育園が終わったら、七田チャイルドアカデミーという塾とピアノ教室、そろばん、水泳に通っていた。

アカデミーでは、英語を勉強したり、記憶力や第六感のトレーニングをしたりする。アカデミーには英語がペラペラの子もいて、他人と比べてできない自分が悔しかった。できない自分を見るのは嫌で、アカデミーではいつもはぶてた態度を取っていて先生は困った顔をしてたな~。

アカデミ-に行けば、劣等感しかない。アカデミーに行く前には、大泣きしていたこ記憶がある。ただ、母がお金やりくりして、アカデミーの費用を捻出してくれていたことを感じていたので…とりあえず行くようにしていた。

そんな私に母は、『ようちゃんは特別だからなんでもできる』と言っていたのを覚えている。母は純粋にそう思っていたと思う、が…。私にはその言葉が辛かった。母の期待する自分になれないことが本当に、イヤでイヤでたまらなかった。

とにかく、私は幼少期から既に、「英語ができる私」「テストの点が良い私」「○○を持っている私」を基準にして他人からどう思われるか(他人のものさし)で自分の価値を決めていたのである。

劣等感ー優越感の狭間

この時期のことを言葉で表すとするなら「劣等感ー優越感の狭間」

アカデミーでは、できない方であるが、保育園では、出来る子と評価される。できる子でいると許されることやあまやかしてもらえることが多かった。学習ドリルで皆が間違えた時も、「ようこちゃんが間違えるなんて」と先生に言われ特別に許される経験をする。

この経験からも、自分の気持ちよりも「他人の評価が大切」という思いが強化され、他人の顔色や評価をさらに大事にするようになった。また、そうやって生きていけば「人生は楽勝だ」と考えた。

だから、保育園の中で『出来る子』でいることは私にとって、とても重要。いい子で出来る子でいられるように日々振る舞った。いつも他人の正解から離れてしまわないかびくびくしていたな。今思うと他人の正解が自分の正解になり、自分で正解を決められないから、いつも自信がなかった。

だって、この世には一人一人の正解がある。それは他人にはわからない。その他人の正解を全て網羅しようなんて、超能力者でない限り、到底無理な話である(笑)今だから言えることだけど。

保育園時代から、自分の正解を置き去りにしてきたものだから、大人になってコーチングに出会うまで、本当に、自分の正解(自分のものさし、大切にしたい基準のようなもの)がわからなかった。自分が良いと思うこと、自分が好きだと思うこと、自分がどうしたいか。そして、しまいには自分の感情も忘れてしまっていた。

本当の自分を取り戻すのに20年以上(笑)

友達や兄弟

その当時私にとって、遊び相手であると共に、友達や兄弟は大人からいい評価を得るための存在でもあった。大人を自分の上に置き、友達や兄弟は私の下の存在。マウンティングだ。

だから、友人でちょっと輪の外にいる子がいると、寄って行って「○○ちゃんと仲良くしてあげている優しい私」として使っていた部分もあったことを今、正直に認める。自分で言うのもなんだが、心の性根は本当に優しいと思う(笑)だけど、戦略性が働いて、私の評価を得るために人と付き合っていたと思う。

それくらい計算ばかりして、他人の評価を得て自分の価値を確かめた。そうやって自分の価値を確認しながら生きていた。

また、私には2つ年下の妹がいるのだが、「かわいい」みんなが口をそろえて言う容姿の持ち主。私が下に見られるような気がして妹にはいつも嫉妬していたことを覚えている。

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ずっと続く、不安な毎日