自分史~専門学生時代~

恐怖の専門学校

私が進学した「九州医療センター附属看護専門学校」の偏差値は、61.5くらい。卒業生の看護の質は高いと評価を得ていた。
当時は九州で唯一の大幅黒字経営の病院だと聞いたこともあった。(事実かは不明)

そんな学校であるため、

  • 「バイトは禁止」
  • 「半数以上が寮に入る」
  • 「授業出席率 ほぼ100%」
  • 「国家試験合格率 毎年100%」

また、校則もとても厳しい。

髪色は決まりがあり、看護の演習をする部屋には髪色のサンプルがあった。それより明るかったら入室不可。マツエクは禁止。もちろんネイルも。
爪は白いところが5㎜以下になるように。実習のシューズは、ちょっとでも汚れていたら入室不可。

最初は私も寮に入り、大人しく学校生活を送っていた。

が、もともと「都会に住む私」と「他人に勝つため」に決めた進路。
看護にはそれほど興味が湧かず、すぐに授業がおもしろくなくなった。

友人は、望んで看護学校に来た人ばかり。
みんなイキイキした顔で、看護に取り組んでいた。

自分だけ…好きなものも見つからず、焦る毎日だった。

秘密のバイト

学校では、バイトは禁止と決まっていた。より勉強に集中できるようにという理由からだった。

専門学校では、3年で看護師になるための全てを学ぶ。大学は4年なので、大学より1年短い。

先生たちはよく「あなたたちは何をしに来たのですか?看護師になるためですよね」と言っていた。

だが、私がバイト禁止の校則を守るわけもなく、3つのバイトを始めた。(ヤフードームのキリンビールの売店、カフェ、居酒屋)

寮には門限があったので、一人暮らしも始めた。

私と同じ長崎県出身のNちゃんと仲良くなり、二人でバイトに明け暮れたあとは、西中洲のバーに飲みに繰り出すという日々を送った。
お互いの家によく泊まり、朝寝坊し、時間をずらして学校に行っていた。

1週間に1回は怒られていた。仮病や、ずる休みもよくしていた。
夜更かしをするので、授業中はひたすら爆睡。

担任の先生は、私の生活態度をなんとかしたいと、カウンセラーの先生のところへ行かせることを決定し、強制的に連れて行かれたこともあった。

看護学実習

2年生後半になると、病棟での実習が始まる。その実習を乗り越えられるかが勝負といわれていた。一学年に何名かはリタイアする人が出るのだ。

私は、ちょっとビビッて3年生から寮に戻るという選択をした。

実習が始まり、毎日が感覚的に地獄だった。

看護記録、看護診断レポート、日々禄など様々なレポートが山のようにある。しかも手書きという決まりだ(コピー防止のため)

私は、3つやっていたバイトが大好きでたまらなかった。当時の生きる目的だったのだ。

なんとかして、バイトを続けたい…

ただ、徹夜で次の日を迎えるくらいのレポートの量。

そこで私の取った行動は、実習中にトイレでレポートを書くことだった。
暇さえあれば、病棟でもバインダーを片手にレポートを書く。昼休みもひたすらレポートを書く。

ただ、やっつけるためにレポートをしていた。

そのことには病棟の看護師さんたちも気付いており、要チェック生徒にあげられていたと思う。
レポートの内容が薄いと、実習に行かせてもらえなかった日もあったな~笑

みんなは真剣に患者さんと向き合っている中、レポートをいかに終わらせるかに頭がいっぱいだった私は、ある患者さんに出会うことになる。

初めて人と向き合った経験

消化器外科の実習で受け持った患者さんは、肝がんの患者さんだった。転移があり、ステージも重かったと思う。
たまたま、私と同じ長崎県出身の方だった。

初めてレポートじゃなくて、生身の患者さんと向き合った瞬間だったと思う。

彼女は、「私は、まだ生きたいと思うからどんな治療でもがんばる」と言って、放射線治療など様々な治療を受けていた。

「あなたがいると気が休まるわ」「ありがとう」「気持ちの整理ができる」

と、ただ話を聴き一緒にいるだけでそういう言葉をもらった。
そんな状況になると人は、自分にできることを考え出すのだと思う。

私は初めて、看護師(看護学生)として何ができるかを考えた。

私は話を聴いて、ただ側にいることしかできなかったけど…元気のなかった彼女は、話を聴いてもらい、自分の人生について語るうちに、元気になることがよくあった。

そして最後には、いつも「まだ生きたい」と言っていた。

自分の人生を言葉にしていくこと、人に話すこと。そして、自分の人生を聴いて向き合ってくれる人がいると生きる力が湧くことを知った経験だった。

このエピソードは、今のコーチとしての私に繋がっていると思う。

彼女は、真珠の養殖会社を代々経営されていました。
その話もよく聞かせていただいていたのですが、
実習期間が終わり、卒業するころに、
封筒が届きました。

彼女の娘さんからで、

「母が永眠しました。実習期間中は本当にありがとう。あなたのことをよく話してくれていました。あなたに、プレゼントをしたいとずっと言っていたので勝手ながら送らせていただきます。」

と書いてありました。左のネックレスで今でも宝物です。

大切な人たち

私の学校での態度は、これまで書いてきたように一般的には「不真面目」だった。

そんなわけで、大半の先生は私のことを諦めていた。

看護師になるのさっさと辞めれば?と言ってきた先生もいた。

だけど教育主事の先生は、

「あなたは、絶対にできるからまず、真面目に取り組んでみなさい。そして、大学に行きなさい。行って勉強しなさい」

と言った。

勝手に予約されていた、スクールカウンセラーの先生からも、

「あなたは落ちこぼれじゃなくて、吹きこぼれ笑。先の予測ができて、頑張ればなんでもできてしまって、おもしろくなくなったんだよね。だから大丈夫。あなたはやりたい通りにやりなさい。今は悩んでいるかもしれないけど、大丈夫。いつか道が見つかるから。なんかあったらいつでも連絡しなさい。」

と言ってくれた。

事務の先生も、よく声をかけてくれた。書類のことではたくさん助けてもらったな。この先生とは今でもつながっている。

こうやって、「不真面目な私」ではなく「私」そのものを見てくれる人がいっぱいいた。

また、一学年上の子で妊娠、出産をして留年したNちゃんと仲良くなった。

彼女とはなぜか仲良くなった。おそらく私もクラスで浮いていたからだと思う笑。彼女も、学年が変わったことで、なじめなかったらしい。

また、この彼女がすばらしい人で、私が学校に行きたくない、実習をサボろうとするタイミングで「ちゃんと行け」と声をかけてきた。

大嫌いだった学校にも、そんな大切な人たちがいた。

学校の外では、3つしていたバイト先の人達が支えてくれた。

1つは個人経営の居酒屋。
そこの大将とおかみさんは、私の福岡の親と言う感じ。なにも言わないけれど、実習期間にバイトに行くと、次の日のご飯まで用意してくれてお弁当を持たせてくれた。

もう一つのバイトは、ヤフードーム。
キリンビールの売店の仲間。そこのメンバーは、今でも誰かが結婚したりすると集合がかかるほどの仲良し。私が3年生で、寮に入って23時が門限になった時も、車で間に合うように送ってくれた。

学校を辞めたいといえば、「辞めたらバイトも辞めろ」と言ってくれていた。

みんなのおかげで私は、大分大学医学部看護学科編入試験に合格。大学に進学することになった。

ここからは自慢です笑

2年次に後ろから3番目だった成績はいつの間にか、3年次の6月には上から2番。そして、無事看護師の国家試験もパス。得点率は96%でした。(65%前後がボーダーラインです)

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